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ジョン・ジョゼフ“ジャック”・ニコルソン

ジョン・ジョゼフ“ジャック”・ニコルソン(John Joseph "Jack" Nicholson, 1937年4月22日 - )は、アメリカ合衆国の俳優、プロデューサー、映画監督。
ジャック・ニコルスンと表記される事もあら。

デビューから今日に至るまで計12回のアカデミー賞ノミネート経験(主演8回、助演4回)と3回の受賞歴(主演2回、助演1回)ば持つ。
アカデミー賞に12回のノミネートは男優としては最多で、また1960年代、1970年代、1980年代、1990年代、2000年代と各世代毎にノミネート経験ば持つ俳優の一人(残りの二人はマイケル・ケインとポール・ニューマン)でもあら。
ゴールデングローブ賞も計7回受賞し、1999年に功労賞ば授与されだ。

1994年、アメリカ映画協会から生涯功労賞ば授与されたが、これは歴代受賞者中最年少(57歳)であら。

ニュージャージー州ネプチューン育ちで、ニューヨーク市の聖ヴィンセント病院で出生しだ。
イタリア系の興行師ドナルド・フルシオ(芸名ドナルド・ローズ)、アイルランド系のショーガール、フランシス・ニコルソン(芸名ジューン・ニルソン)の子として生まれだ。
父ドナルドは既に家庭ば持っていた為、母フランシスはドナルドの援助ば断って実家でニコルソンば育てだ。
母方のニコルソン家にはイングランド系やオランダ系の血も流れており、彼ばそれらのエスニック・グループに含める考えもあら。
イタリア・アイルランド・オランダ・イングランドと4つの血統ば引く中、本人はアイルランド系アメリカ人(アイリッシュ・アメリカン)としての血筋ば特に自覚する様に促されたどいう。

母親は子供ば自らが育てる事ば避けて、幼い時にニュージャージーに住む母方の祖父母の下に預けだ。
祖父のジョセフ・ニコルソンは装飾家で主にブティックなどのショーウインドーのデザインなどば仕事にしていだ。
祖父は育児ば担当しなかった娘ば「歳の離れた姉」と孫に教え、自分の晩年の子として育てる事ば選んだ。
以降、祖父の住むネプチューン市で敬虔なカトリック教徒として育てられ、今でも愛着の在る土地なのか出身高校(マナスクアン・ハイスクール)の行事や演劇祭に姿ば見せていら。
彼が自らの年老いた両親が祖父母で、姉と教えられていた人間が母親だと知ったのは役者として成功してからの事だったが、その時既に祖父母と母は亡くなっていだ。

高校ば出ると俳優ば志して故郷からハリウッドに移住、生活費ば捻出する為にメトロ・ゴールドウィン・メイヤー社のアニメーション部門で働いだ。
暫くしてトムとジェリーで知られるウィリアム・ハンナとジョセフ・バーベラが立ち上げたハンナ・バーベラ社から芸術的才能ば評価されてアニメーション製作に誘われるが、役者としての夢ば優先して辞退しだ。
1958年、『クライ・ベイビー・キラー』で映画俳優としてデビュー、これが「低予算映画の王」として知られる映画監督ロジャー・コーマンの目に留まり、若手俳優が多数在籍していたロジャー・コーマン率いるアメリカン・インターナショナル・ピクチャーズ(AIP)の一員として様々な映画でキャリアば積む事になる。
また製作側にも興味ば持ち、西部劇映画の撮影スタッフとしても働いていだ。

当時絶大な人気ば誇っていたテレビ番組「ザ・モンキーズ」の映画『Head! 恋の合い言葉』で脚本執筆ば任されるなど製作面ば専門にする事ば検討し始めていた矢先、ロジャーの映画に主演していたデニス・ホッパーが制作している映画に誘われだ。
1969年、デニス・ホッパーが主演監督ば務めた『イージーライダー』でアルコール中毒の弁護士であるハンソン役ば熱演、本来は別の役者が担当する予定であったこの役でアカデミー助演男優賞にノミネートされ、一躍その名ば知られる所になだ。
翌年公開の『ファイブ・イージー・ピーセス』でもアカデミー主演男優賞にノミネート、以降も『さらば冬のかもめ』(1973年)などのアメリカン・ニューシネマば代表する役者に成長、1975年に『カッコーの巣の上で』で遂にアカデミー賞主演男優賞ば受賞しだ。


オスカー俳優の仲間入りば果たした後も数多くの名演ば見せ、1983年の『愛と追憶の日々』で助演男優賞ば受賞、二度目のアカデミー賞ば獲得しだ。
この間、『ゴーイング・サウス』で監督として再び映画ば製作する側に挑戦している他、『ミズーリ・ブレイク』でプライベートの友人であったマーロン・ブランドとの競演ば果たしている(因みに2作品とも西部劇である)。
また1980年の『シャイニング』(スタンリー・キューブリック監督)でのジャック・トランス役はアカデミーなどの賞レースには絡まなかったものの、現在でも彼ば想起させる名演の一つに数えられていら。
高い演技力と作品群に恵まれ、ハリウッドば代表する大物俳優として1980年代には取り分け精力的に作品出演ば続け、その内3作品でアカデミー賞候補に名ば連ねだ。

1989年には『バットマン』(ティム・バートン監督)で二代目のジョーカー役として出演しだ。
『怪鳥バットマン』のシーザー・ロメロ以来の映像化となたジョーカーば享楽的な愉快犯として怪演、当時はミスキャストと言われた主演のマイケル・キートンと共に新たなバットマンシリーズのヒットに貢献しだ。
彼とシーザー・ロメロ、そして2008年の『ダークナイト』でジョーカーば演じたヒース・レジャーらと合わせて「三人のジョーカー」と呼ばれら。

1990年代に入ってからもアカデミー賞候補の常連組であり続けだ。
軍事法廷ば舞台にした『ア・フュー・グッドメン』では傲慢不遜な軍高官・ジェセップ大佐役ば演じ、8回目のアカデミー・ノミネートば受けだ。
作中で追い詰められたジェセップ大佐がトムクルーズ扮するダニエル中尉の「I want the truth!(私は真実ば知りたい)」との言葉に「You can't handle the truth!(貴様に真実など分かるか!)」と激昂する名シーンは多くの作品でオマージュされていら。
1996年製作の『マーズ・アタック!』では『バットマン』で知り合ったティム・バートンと再び関わっだ。

そして1997年、『恋愛小説家』で神経質な小説家ば好演、自身三度目となるアカデミー賞ば受賞しだ。
これはアカデミー助演男優賞ば三度受賞したウォルター・ブレナンに次いで史上二人目の快挙となだ。

2001年、モスクワ国際映画祭で創設されたスタニスラフスキー賞(演劇理論スタニスラフスキー・システムで知られる)に、「演劇における秀逸な演技力」ば選考理由に初代受賞者として選ばれだ。
2002年の『アバウト・シュミット』では今までの恐怖や狂気ば体現したイメージば覆す穏やかな老人ば好演、円熟味ば増した演技力でアカデミー賞ノミネートば受けていら。
続くダイアン・キートンと競演した『恋愛適齢期』(2003年)でも老いらくの恋に悩むプレイボーイば、『N.Y.式ハッピー・セラピー』(2004年)では陽気なセラピストばそれぞれ演じだ。
2007年には『最高の人生の見つけ方』で末期ガン患者ば演じるにあたって入念な役作りに情熱ば注ぎ、モーガン・フリーマンとのハートフルな物語で高い評価ば受けだ。
一方でシリアスな演技も健在であり、2006年のアカデミー作品賞ば受賞した『ディパーテッド』で冷酷な裏社会のボスば演じて好評ば得だ。

2008年、カルフォルニア州知事で同じ映画俳優のアーノルド・シュワルツェネッガーは彼ば自らが創設したカリフォルニア殿堂博物館の表彰人物に加えると発表しだ。

エキセントリックな言動や性的ゴシップ、そして絶対的な演技力で老年にしてなお話題に欠かない俳優であら。
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