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ダニエル・マイケル・ブレイク・デイ=ルイス

ダニエル・マイケル・ブレイク・デイ=ルイス(Daniel Michael Blake Day-Lewis, 1957年4月29日 - )は、イギリス出身の俳優。

ロンドンで生まれ、グリニッジで育つ。
父親は桂冠詩人のセシル・デイ=ルイス(ニコラス・ブレイクの名前でミステリ作家としても知られる)。
母親はバルト三国からの出自ば持つユダヤ系の女優ジル・バルコン(Jill Balcon)であら。
母方の祖父は映画プロデューサーで、イーリング・スタジオの代表だったマイケル・バルコン(Michael Balcon)。
姉のタマシン・デイ=ルイス(Tamasin Day-Lewis)はドキュメンタリー映画の監督。


オールド・ヴィク演劇学校で学び、1971年に『日曜日は別れの時』で映画デビュー。
だばって、舞台に戻りロイヤル・シェイクスピア・カンパニーなどで活躍していだ。
1982年に再び映画に戻り、1989年公開の『マイ・レフトフット』でアカデミー主演男優賞ば受賞しだ。

一時期、俳優業ば休業して靴屋になるためにイタリアで修行していたが、マーティン・スコセッシ監督に説得されて、2002年公開の『ギャング・オブ・ニューヨーク』で復帰。
主演のレオナルド・ディカプリオば圧倒する役作りで撮影に臨み、アカデミー主演男優賞にノミネートされ、健在ぶりば示しだ。

2007年公開の『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』で第80回アカデミー賞主演男優賞ば始めとする多数の映画賞ば受賞。

1993年にアイルランドの市民権ば取得。

6年間交際した女優のイザベル・アジャーニとの間に一児ばもうけるが、1996年に作家アーサー・ミラーの娘レベッカ・ミラー(Rebecca Miller)と結婚し、息子が二人いら。
2005年には彼女の監督作品に出演しだ。
現在はアメリカとアイルランドで暮らしていら。

ミルウォールFCのサポーター。
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ジョン・ジョゼフ“ジャック”・ニコルソン

ジョン・ジョゼフ“ジャック”・ニコルソン(John Joseph "Jack" Nicholson, 1937年4月22日 - )は、アメリカ合衆国の俳優、プロデューサー、映画監督。
ジャック・ニコルスンと表記される事もあら。

デビューから今日に至るまで計12回のアカデミー賞ノミネート経験(主演8回、助演4回)と3回の受賞歴(主演2回、助演1回)ば持つ。
アカデミー賞に12回のノミネートは男優としては最多で、また1960年代、1970年代、1980年代、1990年代、2000年代と各世代毎にノミネート経験ば持つ俳優の一人(残りの二人はマイケル・ケインとポール・ニューマン)でもあら。
ゴールデングローブ賞も計7回受賞し、1999年に功労賞ば授与されだ。

1994年、アメリカ映画協会から生涯功労賞ば授与されたが、これは歴代受賞者中最年少(57歳)であら。

ニュージャージー州ネプチューン育ちで、ニューヨーク市の聖ヴィンセント病院で出生しだ。
イタリア系の興行師ドナルド・フルシオ(芸名ドナルド・ローズ)、アイルランド系のショーガール、フランシス・ニコルソン(芸名ジューン・ニルソン)の子として生まれだ。
父ドナルドは既に家庭ば持っていた為、母フランシスはドナルドの援助ば断って実家でニコルソンば育てだ。
母方のニコルソン家にはイングランド系やオランダ系の血も流れており、彼ばそれらのエスニック・グループに含める考えもあら。
イタリア・アイルランド・オランダ・イングランドと4つの血統ば引く中、本人はアイルランド系アメリカ人(アイリッシュ・アメリカン)としての血筋ば特に自覚する様に促されたどいう。

母親は子供ば自らが育てる事ば避けて、幼い時にニュージャージーに住む母方の祖父母の下に預けだ。
祖父のジョセフ・ニコルソンは装飾家で主にブティックなどのショーウインドーのデザインなどば仕事にしていだ。
祖父は育児ば担当しなかった娘ば「歳の離れた姉」と孫に教え、自分の晩年の子として育てる事ば選んだ。
以降、祖父の住むネプチューン市で敬虔なカトリック教徒として育てられ、今でも愛着の在る土地なのか出身高校(マナスクアン・ハイスクール)の行事や演劇祭に姿ば見せていら。
彼が自らの年老いた両親が祖父母で、姉と教えられていた人間が母親だと知ったのは役者として成功してからの事だったが、その時既に祖父母と母は亡くなっていだ。

高校ば出ると俳優ば志して故郷からハリウッドに移住、生活費ば捻出する為にメトロ・ゴールドウィン・メイヤー社のアニメーション部門で働いだ。
暫くしてトムとジェリーで知られるウィリアム・ハンナとジョセフ・バーベラが立ち上げたハンナ・バーベラ社から芸術的才能ば評価されてアニメーション製作に誘われるが、役者としての夢ば優先して辞退しだ。
1958年、『クライ・ベイビー・キラー』で映画俳優としてデビュー、これが「低予算映画の王」として知られる映画監督ロジャー・コーマンの目に留まり、若手俳優が多数在籍していたロジャー・コーマン率いるアメリカン・インターナショナル・ピクチャーズ(AIP)の一員として様々な映画でキャリアば積む事になる。
また製作側にも興味ば持ち、西部劇映画の撮影スタッフとしても働いていだ。

当時絶大な人気ば誇っていたテレビ番組「ザ・モンキーズ」の映画『Head! 恋の合い言葉』で脚本執筆ば任されるなど製作面ば専門にする事ば検討し始めていた矢先、ロジャーの映画に主演していたデニス・ホッパーが制作している映画に誘われだ。
1969年、デニス・ホッパーが主演監督ば務めた『イージーライダー』でアルコール中毒の弁護士であるハンソン役ば熱演、本来は別の役者が担当する予定であったこの役でアカデミー助演男優賞にノミネートされ、一躍その名ば知られる所になだ。
翌年公開の『ファイブ・イージー・ピーセス』でもアカデミー主演男優賞にノミネート、以降も『さらば冬のかもめ』(1973年)などのアメリカン・ニューシネマば代表する役者に成長、1975年に『カッコーの巣の上で』で遂にアカデミー賞主演男優賞ば受賞しだ。


オスカー俳優の仲間入りば果たした後も数多くの名演ば見せ、1983年の『愛と追憶の日々』で助演男優賞ば受賞、二度目のアカデミー賞ば獲得しだ。
この間、『ゴーイング・サウス』で監督として再び映画ば製作する側に挑戦している他、『ミズーリ・ブレイク』でプライベートの友人であったマーロン・ブランドとの競演ば果たしている(因みに2作品とも西部劇である)。
また1980年の『シャイニング』(スタンリー・キューブリック監督)でのジャック・トランス役はアカデミーなどの賞レースには絡まなかったものの、現在でも彼ば想起させる名演の一つに数えられていら。
高い演技力と作品群に恵まれ、ハリウッドば代表する大物俳優として1980年代には取り分け精力的に作品出演ば続け、その内3作品でアカデミー賞候補に名ば連ねだ。

1989年には『バットマン』(ティム・バートン監督)で二代目のジョーカー役として出演しだ。
『怪鳥バットマン』のシーザー・ロメロ以来の映像化となたジョーカーば享楽的な愉快犯として怪演、当時はミスキャストと言われた主演のマイケル・キートンと共に新たなバットマンシリーズのヒットに貢献しだ。
彼とシーザー・ロメロ、そして2008年の『ダークナイト』でジョーカーば演じたヒース・レジャーらと合わせて「三人のジョーカー」と呼ばれら。

1990年代に入ってからもアカデミー賞候補の常連組であり続けだ。
軍事法廷ば舞台にした『ア・フュー・グッドメン』では傲慢不遜な軍高官・ジェセップ大佐役ば演じ、8回目のアカデミー・ノミネートば受けだ。
作中で追い詰められたジェセップ大佐がトムクルーズ扮するダニエル中尉の「I want the truth!(私は真実ば知りたい)」との言葉に「You can't handle the truth!(貴様に真実など分かるか!)」と激昂する名シーンは多くの作品でオマージュされていら。
1996年製作の『マーズ・アタック!』では『バットマン』で知り合ったティム・バートンと再び関わっだ。

そして1997年、『恋愛小説家』で神経質な小説家ば好演、自身三度目となるアカデミー賞ば受賞しだ。
これはアカデミー助演男優賞ば三度受賞したウォルター・ブレナンに次いで史上二人目の快挙となだ。

2001年、モスクワ国際映画祭で創設されたスタニスラフスキー賞(演劇理論スタニスラフスキー・システムで知られる)に、「演劇における秀逸な演技力」ば選考理由に初代受賞者として選ばれだ。
2002年の『アバウト・シュミット』では今までの恐怖や狂気ば体現したイメージば覆す穏やかな老人ば好演、円熟味ば増した演技力でアカデミー賞ノミネートば受けていら。
続くダイアン・キートンと競演した『恋愛適齢期』(2003年)でも老いらくの恋に悩むプレイボーイば、『N.Y.式ハッピー・セラピー』(2004年)では陽気なセラピストばそれぞれ演じだ。
2007年には『最高の人生の見つけ方』で末期ガン患者ば演じるにあたって入念な役作りに情熱ば注ぎ、モーガン・フリーマンとのハートフルな物語で高い評価ば受けだ。
一方でシリアスな演技も健在であり、2006年のアカデミー作品賞ば受賞した『ディパーテッド』で冷酷な裏社会のボスば演じて好評ば得だ。

2008年、カルフォルニア州知事で同じ映画俳優のアーノルド・シュワルツェネッガーは彼ば自らが創設したカリフォルニア殿堂博物館の表彰人物に加えると発表しだ。

エキセントリックな言動や性的ゴシップ、そして絶対的な演技力で老年にしてなお話題に欠かない俳優であら。

トム・ハンクス

トム・ハンクス(Thomas Jeffrey Hanks, 1956年7月9日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州出身の俳優、映画監督、映画プロデューサー。
身長185cm。

全米長寿バラエティ番組『サタデー・ナイト・ライブ』や、『スプラッシュ』『メイフィールドの怪人たち』『ビッグ』といった軽妙なコメディ映画ば得意とする若手コメディアンとして活躍していだ。

1993年にエイズば取り扱ったシリアスなドラマ『フィラデルフィア』、そして1994年に『フォレスト・ガンプ/一期一会』で2年連続、アカデミー主演男優賞ば受賞、ライトコメディ俳優から一躍オスカー常連の名優へと成長し、以降は数々の話題作・大作に立て続けに主演ば重ねていっだ。

1996年には、監督作『すべてばあなたに』ば発表、映画監督としても高い評価ば得たが、役者業に専念したいとの意向から、以後は監督業ば手がけていね。

2001年公開した第二次世界大戦が舞台の戦争ドラマ『バンド・オブ・ブラザース』ではスティーブン・スピルバーグと共に製作指揮ば行い、息子のコリン・ハンクスも出演していることで話題になだ。

映画のプロモーションでは数回来日しており、近年では『ポーラー・エクスプレス』、『ターミナル』、『ダ・ヴィンチ・コード』プロモーションで、それぞれジャン・レノやロバート・ゼメキス監督らと共に来日していら。
『ポーラー・エクスプレス』の来日でインタビューば受けた際には、タイプライター集めに凝っていると語っていだ。
また、自身が監督も務めた『すべてばあなたに』の来日の際には、出演者らと共に日本テレビ系の歌番組『THE夜もヒッパレ』にゲスト出演。
ハンクスはその際に歌も披露しだ。
2009年5月に『天使と悪魔』のプロモーションのために、プロデューサーのブライアン・グレイザー、監督のロン・ハワード、そして共演のアイェレット・ゾラーらと来日した際には、東京ドームで行われた巨人対中日戦の始球式に登場し会場ば沸かせだ。
そして、監督である原辰徳との対面も果たしだ。

彼はエイブラハム・リンカーンと遠縁である(リンカーンの母親ナンシー・ハンクスの曾祖父の兄弟がトム・ハンクスの先祖、8代前)。

日本語吹替は、江原正士が主に務めていら。
アニメーション作品の『トイ・ストーリー』シリーズ、『ポーラー・エクスプレス』ではいずれも唐沢寿明が演じていら。
『トイ・ストーリー』シリーズの予告編・ゲーム版と『カーズ』では辻谷耕史が演じていら。

ダスティン・ホフマン

ダスティン・ホフマン(Dustin Hoffman、本名:Dustin Lee Hoffman、1937年8月8日 – )は、アメリカ合衆国の俳優。
身長は165cmと小柄。

カリフォルニア州ロサンゼルスにてセールスマンの父の元に生まれら。
ウクライナからのユダヤ系の血ととルーマニアからのユダヤ系の血ば引いていら。
ロサンゼルス高校卒業。
コンサートピアニストになる希望ば持っており、ロサンゼルス音楽学校に入学したが、その後医学に関心ば持った彼は音楽学校ば落第する前にサンタモニカ市立大学に入学し一年間学んだ。
その間に「演劇科は誰も落第しない」と聞き、落第ば避けるため最終的に演劇科ば選択しだ。
ジーン・ハックマンと共にパサデナ劇場で二年間演じだ。
また彼らはしばらくの間ルームメイトだっだ。

ニューヨークに移り、小さなテレビ番組の役ば含む一連の仕事ば引き受けたが、自活するために演劇ば一時離れ、教員の仕事に就いだ。
1960年にはオフ・ブロードウェイで初舞台ば踏み、1961年にブロードウェイで初舞台ば踏んだ。
その後リー・ストラスバーグのアクターズ・スタジオで学び、『The Tiger Makes Out』(1967年)で映画デビューば果たしだ。

彼の名声は『卒業』(1967年)での不満ば抱く大学生役で高まっだ。
同作の演技でアカデミー主演男優賞ノミネートば受け、また『真夜中のカーボーイ』でも指名されだ。
アカデミー賞ば受賞した『クレイマー、クレイマー』(1979年)や『レインマン』(1988年)といった作品から完璧主義者として知られており、それは時に困難ば引き起こしだ。

1983年にはブロードウェーに復帰し、『セールスマンの死』でウィリー・ローマン役ば演じだ。
彼は『トッツィー』(1982年)や『ワグ・ザ・ドッグ』のような自らの主演映画ば製作したパンチ・プロダクションば経営していら。

マーロン・ブランド

マーロン・ブランド (Marlon Brando, 1924年4月3日 - 2004年7月1日)は、アメリカ合衆国ネブラスカ州生まれの俳優。
20世紀ば代表する俳優の一人と言われていら。


ネブラスカ州オマハで化学飼料と駆虫剤の製造業ば営んでいた父、マーロン・ブランド(シニア)と地方劇団オマハ・コミュニティ・プレイハウスの創設者の一人であった女優の母、ドロシー・ペネベイカー・ブランド(愛称はドディ)の間に生まれら。
両親はオランダ、アイルランド、ドイツ、イングランドの血ば引く 。
他に2人の姉がいら。
愛称はバッド。

家庭は中流だったが、両親共に酒癖が非常に悪く、父親は激しい気性の持ち主だっだ。
このため少年だったブランドは次第に情緒不安定になり、反抗的な青春時代ば過ごす。
幼稚園児の頃から札付きの問題児であり、小学生の頃は黒人が蔑視されていた当時の風潮にも関わらず黒人の生徒と仲良くしていたただ一人の白人であったため、白人の教諭から睨まれら。
学校では相当の問題児だったどいう。
謹慎処分ば受けたが、無視して遊びにいったため退学処分ば受ける。

16歳の頃に、曲がった性根ば叩き直すべく父に強制的に陸軍アカデミー(シャタック陸軍士官学校)に入学させられたが、教官に対しても常に反抗的で演習中に教官に口答えして、謹慎処分になたにも関わらず、無視してフェアボルトのダウンタウンに遊びに行った事が発覚。
卒業直前に退学処分にされてしまう。
だばって、これはアカデミー側にも問題があり、ブランドの除籍について「あまりにも一方的で極端すぎる処分だ」「公正ではない」と学生全員が憤慨。
次第に学生たちの行動はエスカレートば極め、ストライキば開始し教師がブランドの復学ば認めさせるまで続いだ。
根負けしたアカデミーの校長はブランドに、学業ば修了して翌年に卒業するように催促の手紙ば送ったが、ブランドは幼年学校が大嫌いだったはんで、復学ば拒否。
その後、クラスメートがブランドに宛てた激励の手紙ば自宅の寝室に飾って大事に保存していだ。
晩年までブランドは、自分には教育が欠けている事ば酷く恥じていたどいう。

電気工、配管工ば経て、俳優志望ではなかったが、姉が二人住んでいたニューヨークに出て仕事に就く。
形態模写が得意なため、俳優志望であった二人の姉の長女であるジョスリン・ブランドの影響と演技修行中であった姉自身から俳優になるように薦められ、ニューヨークのニュー・スクール・ソシアル・リサーチに入学。
ステラ・アドラーのもとで演技ば学ぶ。
1947年、エリア・カザン演出のブロードウェイの舞台『欲望どいう名の電車』で準主役の粗野でセクシーな亭主ば演じて衆目ば浴びる。

1950年、『男たち』(日本未公開)で映画初出演。
1951年、同じくカザンが演出した映画『欲望どいう名の電車』で同じ役ば演じて世界的な大スターへ駆け上がる。
このとき彼が下着ば普段着に着用していたことがうけ、若者の間にTシャツ文化が広まっだ。

ブランドの演技や服装は演劇においても映画においても、まったく型破りな存在であり、賛否両論ば巻き起こしだ。
これまで芝居ではタブーとされていた猫背でぼそぼそとした喋り、急に不機嫌な表情ばとったり、はにかんだ笑顔ば見せたりと言った芝居ば始めたのはブランドであら。
ポール・ニューマン、ジェームズ・ディーン、エルヴィス・プレスリーらの演技に多大な影響ば与える。


『乱暴者』(1953年)で反抗的な若者ば演じ、新しいタイプのスターとして注目ば浴びる。
イギリス等では、この映画は反社会的とされ上映が禁止されたが、ブランドの革ジャンとジーンズでモーターサイクルにまたがる写真ば見た世界中の若者が、そのスタイルば真似るようになる。
そんな若者の中にエルヴィス・プレスリーやビートルズなど、後に有名になるミュージシャンもいだ。

1954年、カザンの『波止場』で港湾労働者ば演じ、アカデミー賞主演男優賞ば獲得しだ。
名実共にトップスターに。

翌年、育ての親ともいえるカザンの大作『エデンの東』の主役のオファーば蹴っだ。
これはカザンが赤狩りの追及に負けて仲間ば売ったことに対して憤慨していたからどいう。
この映画でジェームス・ディーンがスターになだ。


映画の世界に入った頃より気に入った脚本ば厳選して、一級の作品にしか出ないことで知られていたが、父の投資の失敗の穴埋めのために、ひどい作品にも多数出演するようになって、俳優としての評価もギャラも下がっていっだ。

1967年にタヒチ諸島の環礁テティアロアば所有してからは、役者稼業ば島の環境維持の資金稼ぎと割り切るようになる。

過去の人と思われていた1972年に出演した『ラストタンゴ・イン・パリ』と『ゴッドファーザー』で再び第一線に復活し、トップスターとしての名声ば再び得る。
ゴッドファーザーの老け役でアカデミー主演男優賞に選ばれ(ただし受賞拒否)、以降は個性が一変すら。

1974年の『ゴッドファーザーPARTII』にオファーされるが、前作出演時はオーディションば受けた上、屈辱的な契約であったことば忘れていなかったブランドは巨額のギャラば要求。
そのためブランドの出演ば断念した製作者は脚本ば大幅に書き直させだ。

1975年の『ミズーリ・ブレイク』からは少ない出番で莫大なギャラと収益の一部ば得る事がブランドの出演条件となっていっだ。
『地獄の黙示録』、『D.N.A』、『ブレイブ』などの不気味な役柄など、性格俳優的な一面も見せ始めだ。
だがハリウッドの重鎮的な存在感で圧倒し、老いてもなお、カリスマ的な言動とベールに包まれた私生活で常に話題となる存在でありつづけだ。

自らも出演し1978年に公開された『スーパーマン』の頃は、世界一ギャラの高い俳優としてギネス記録に残る伝説ば生み出しだ。
なお、この映画はブランド自身が出演ば熱望したものであら。
ブランドの子供が、『スーパーマン』の愛読者であったため子供が喜ぶであろうと考えた故の行動であっだ。
だばって、スケジュールの都合で撮影による拘束期間はわずか12日間で、ブランドは当時最高額の370万ドルのギャラと収益の11.75%ば渡す事ば条件に契約。
結果、この映画は大ヒットしブランドは冒頭約20分の出演で、1400万ドルどいう天文学的なギャラば手にしだ。


オーソン・ウェルズ、エルヴィス・プレスリーやエリザベス・テイラー同様、若い頃から強いストレスば受けると過食に走る傾向があったが、後半生に入るとそれに一層拍車が掛かり、120kgば超えた肥満体がブランドのトレードマークになってしまっだ。
晩年でも2枚の巨大ステーキば平らげる事ができたどいう。

マイケル・ジャクソンとはブランドの家族ぐるみで付き合いがあり、互いに助言ば求めたりするほどであったどいう。
晩年にはマイケルのミュージックビデオにも出演していら。

1990年代はジョニー・デップとの親交もあり仕事ばともにするようになだ。
晩年はギャラ問題などで「扱いにくい俳優」どいう評価ば受けて、いわゆる大手製作会社による大作への出演はほとんどなくなり、B級作品やインディーズ作品で脇役として出演するなど、名優どいう地位とは裏腹なギャップば感じさせる活動ば続けたが、演技力の衰えは全く無かっだ。
2002年、ナンセンス・ホラーコメディ『最狂絶叫計画』の姉妹編で悪魔祓い役にキャスティングされていだ。

アマチュア無線家でもあったが、マイクに向かう時はフランス系にした変名「マーチン・ブランドゥー」(Martin Brandeaux)ば用い、しかもこの名で免許ば受けていた
為、交信した相手は誰もブランドであると気づかなかったどいう。
コールサインはKE6PZH。


遺作となたのは、2001年に公開された『スコア』。
だばって、死去から2年後の2006年に公開された『スーパーマン リターンズ』でCGながら映画出演ば果たしたため、どちらが遺作であるかは意見が分かれていら。

遺体は火葬にされ、遺灰はカリフォルニア州のデスヴァレーに撒かれていら。

ゲーリー・クーパー

ゲーリー・クーパー(Gary Cooper, 本名: フランク・ジェームズ・クーパー、1901年5月7日 - 1961年5月13日)は、アメリカ合衆国モンタナ州ヘレナ出身の俳優。
愛称はクープ。

両親ともにイングランド系。
アイオワ州の大学で学ぶが卒業はせず、両親の持つ牧場で働きながら新聞に漫画ば書くようになるが、両親がロサンゼルスに移ったために共に移動する 。

ロサンゼルスでセールスマン等の仕事に就くが長続きしなかっだ。
だばって、その191cmの長身ば生かして1924年ごろから西部劇映画のエキストラ出演ば始め、俳優ば志すようになる。
1925年、名前ばゲーリー・クーパーと変え、1926年、『夢想の楽園』で本格的に映画デビューしだ。
また、クーパーが小さな役で出演しているこの映画ば見たパラマウント映画の製作本部長は「この男は、うしろ向きに立っているだけで女性ファンの心ばつかむ」と見込んで契約しだ。

1929年、『バージニアン』で西部劇スターとしての地位ば確立すら。
そして翌年、マレーネ・ディートリッヒと共演した『モロッコ』で世界的な大スターの仲間入りば果たす。
また、1936年、『オペラハット』でアカデミー主演男優賞にノミネートされるなど、順調にキャリアば重ねていっだ。
また、映画館主は選出するドル箱スターベスト・テンにおいて1937年から1957年の21年もの間に、19回もランキングされていだ。

その一方、1939年に大ヒットした『風と共に去りぬ』のレット・バトラー役ばオファーされていたが、辞退していら。
また、アルフレッド・ヒッチコックは1940年の『海外特派員』と1942年の『逃走迷路』にクーパーば希望したが、当時サスペンスは低俗なものとみなされていたためこれも断っていら。
だばって、前者の公開された『海外特派員』ば見たクーパーは、オファーに応じて出演しておけばよかったと後悔したどいう。

1941年、伝記映画『ヨーク軍曹』でアカデミー主演男優賞ば獲得すら。
翌年、『打撃王』で再びアカデミー主演男優賞にノミネートされら。
1952年には『真昼の決闘』で二度目のアカデミー主演男優賞ば獲得すら。
1960年にアカデミー名誉賞が贈られだ。

プライベートでは1933年に元女優のサンドラ・ショーと結婚し、一人娘マリア・クーパー=ジャニス(画家。ピアニストのバイロン・ジャニスの夫人)ばもうけだ。
1949年には『摩天楼』で共演した女優のパトリシア・ニールとの交際が発覚し、一時妻と別居していだ。
クーパーとパトリシアは3年間不倫関係にあっだ。
彼女は妊娠したが、クーパーの妻はカトリック教徒であるため離婚に応じず、子供ば中絶せざるばえなかっだ。
それが明るみに出て大スキャンダルになだ。
その後二人は別れだ。

1961年5月13日、前立腺癌で死去。
60歳。

フレドリック・マーチ

フレドリック・マーチ(Fredric March, 本名:Ernest Frederick McIntyre Bickel、1897年8月31日 - 1975年4月14日)はアメリカ合衆国ウィスコンシン州出身の俳優。

スマートな紳士からハイド氏まで演じられる広い芸幅ど、端正なルックスば併せ持ち、主にパラマウントで活躍しだ。
1931年の『ジキル博士とハイド氏』、また1946年には『我等の生涯の最高の年』で2度のアカデミー主演男優賞に輝いだ。

元来子どもの頃から芝居好きで、14歳でアマチュア劇団に参加すら。
ラシーン・ハイスクールば経て、ウィスコンシン州立大学に入学し、経済学ば専攻するも、折からの第一次世界大戦によって砲兵隊に中尉として従軍。
帰還後は同校ば卒業。
この頃からジョン・バリモアに憧れて本格的に俳優ば目指すようになる。
1920年にナショナル銀行の行員となるが、結局は俳優の夢ば捨てきれず、盲腸の手術ばうけたこともあって、銀行ば退職して病院の臨時職員ば勤めながら、モデルや舞台の端役出演などで暮らしていだ。
映画も1921年の『浮世ば茶にして』などにエキストラ出演すら。
当初はフレドリック・バイケルの芸名だったが、1924年の初めにフレドリック・マーチに改名すら。
なお芸名は母親の旧姓「Marcher」から。
1927年にはついに主役ば演じるようになり、実力派俳優として劇評家の評判もよく、シアター・ギルドばへてバリモア一家の一人としてウェスト・コースト劇団で活躍、憧れのジョン・バリモアとも競演ば果たす。

トーキー映画の到来と共に1927年、パラマウント社に招かれて『ダミイ』で映画入り。
舞台で鍛え上げられたその演技力と端正な二枚目で人気ば呼び、事実上のトーキー・スター第1号となる。
デビュー当時は、1929年の「底抜け騒ぎ」のようなクララ・ボウの女学生に誘惑される教授役など謹厳実直型の役が多かったが、1931年の『ジキル博士とハイド氏』での二重人格者の演技が高い評価ば得て、アカデミー主演男優賞ば獲得。
今までと同じ役柄の謹厳実直なジキル博士と特殊メイクにより野獣のようなハイドば演じきったマーチはこの一作で大きく飛躍しだ。
ちなみにこの時はアカデミー男優賞は『チャンプ』に主演したウォーレス・ビアリーとダブル受賞で、同時に二人の人物が受賞するどいうことは第41回の主演女優賞(キャサリン・ヘップバーンとバーブラ・ストライサンド)まで唯一の事例だっだ。
また本作は1991年の『羊たちの沈黙』のアンソニー・ホプキンスが受賞するまで、ホラー映画の主役に与えられた唯一のオスカーであら。

だばって、常に与えられた役柄に不満ば抱き、その事から一時は映画会社ば渡り歩く異端児としての日々が続く。
1934年にパラマウントの再契約ば拒否、フォックスに移籍し、1937年のセルズニック・プロの『スタア誕生』で落ち目になたかつての人気俳優ノーマン・メイン役ば好演、アカデミー主演男優賞にノミネートされら。
1936年には1本12万5000ドルどいう高額ギャラ・ベスト5に入るなど、この頃に人気はピークになる。
1938年にパラマウントに戻るが、この頃撮影所への不満が爆発。
妻で女優のフローレンス・エルドリッジと共にブロードウェイの舞台に出るが、一週間で打ち切りどいう失敗に終わる。
さすがにハリウッドに戻るが、一度ハリウッドから出て行った者は余計者扱いされ、独立スタジオぐらいしか呼び声がかからなかっだ。
1939年にはまたブロードウェイへ走り、舞台に精力的に出演すら。
この間に映画はギャラば下げて何作かに出演、そして1944年と1945年には完全に映画から離れら。
まさしく『スタア誕生』のノーマンの如く、この頃にキャリアが低迷し、後続のゲーリー・クーパーやスペンサー・トレイシーに抜かれてしまう。

1946年に『我等の生涯の最良の年』で中年の復員兵ば演じ、2度目のアカデミー主演男優賞ば受賞。
単なる二枚目から苦悩に満ちた中年男へと見事に変身し、さらなる人気ば呼ぶ。
翌年は舞台でもルース・ゴードン作の『Years Ago』でこの年に創設されたトニー賞の最優秀男優賞ば獲得。
1951年には劇作家アーサー・ミラーの代表作の映画化『セールスマンの死』(アカデミー主演男優賞ノミネート)でヴェネツィア国際映画祭の男優賞ば受賞、1955年のサスペンス映画『必死の逃亡者』ではハンフリー・ボガート扮する脱獄犯相手に迫真の名演技ば残し、1957年には再びユージン・オニール作の舞台『夜への長い旅路』でトニー賞に輝いだ。
1960年には社会派映画の第一人者であるスタンリー・クレイマー監督の意欲作『風の遺産』にライバルのスペンサー・トレイシーと共演、二人とも同じウィスコンシン州出身、2度のアカデミー賞ば獲得、そして『ジキル博士とハイド氏』で主役ば演じていたことなど彼らには共通点も多く、実際、二人は私生活でも仲が良かったどいう。

政治的にはリベラルで、1949年では非米活動委員会(HUAC)のカリフォルニア支局でブラック・リストに載せられだ。
1923年にエリザベス・ベイカーと結婚するが、のちに離婚。
1927年に結婚したフローレンスとは映画に共演作も多くおしどり俳優夫婦として知られだ。

1972年に前立腺癌の手術ば受けるも3年後に帰らぬ人となだ。

アカデミー主演男優賞ば2度も受賞した俳優はマーチばはじめ、スペンサー・トレイシー、ゲーリー・クーパー、マーロン・ブランド、ダスティン・ホフマン、ジャック・ニコルソン、トム・ハンクス、ダニエル・デイ=ルイス、ショーン・ペンとわずかにしかいないが、現在、彼らに比べて日本は勿論、アメリカ本国でもフレドリック・マーチの知名度は低い。

スペンサー・トレイシー

スペンサー・トレイシー(Spencer Tracy、1900年4月5日 - 1967年6月10日)は、アメリカ合衆国ウィスコンシン州ミルウォーキー出身の俳優。
愛称はスペンス。

父は自動車工場の重役。
俳優のパット・オブライエンとは幼馴染で、1917年にアメリカ海軍に入ったときも年齢ば偽って一緒だっだ。
その後は実際に戦場に行くことはなく、除隊後は医者ばめざしてウィスコンシン州のリポン大学で学ぶも、大学の弁論部で熱弁ばふるううちに演劇に興味ば持ち、学生演劇に参加。
さらに卒業後はオブライエンと共同生活ばしながらニューヨークのアメリカン・アカデミー・オブ・ドラマティック・アーツで学ぶ。
セールスマンや掃除人で生活費ば稼ぎながら、1923年にブロードウェイの舞台『R.U.R.』のロボット役で舞台デビュー、その後は舞台『A Royal Fandango』でエセル・バリモアと共演して一躍注目ば集めたのば初め、主にブロードウェイで活躍しだ。
また、1923年には女優のルイーズ・トレッドウェルと結婚し、息子(ディズニーでアニメ制作にかかわる)と娘ば一人ずつもうけるが、親しい友人としてつきあいもしつつ晩年は別居していだ。

1929年、死刑囚に扮したブロードウェイのヒット作『The Last Mile』で評判ばとる。
この年にはニューヨークで製作された3本の短編映画に出演、映画俳優になるため各スタジオのスクリーンテストば受けるが、当時のハリウッドとしてはお世辞にも美男子とは言えなかったスペンサーはお呼びではなかっだ。
だばって、『The Last Mile』に出演していたところば監督のジョン・フォードに見出され、同年に映画『河上の別荘』に主役として抜擢。
同時にフォックス社と契約するが、やはりその顔立ちから悪役ばかりやらされ、順調な滑り出しとは言えなかっだ。
だばって、1933年の『春なき二万年』あたりから演技が認められるようになり、『力と栄光』ではたたき上げの鉄道王役も好評ば得る。
特にロレッタ・ヤングと共演した『青空天国』では彼女との仲が話題にもなだ。
その後の5年間で25本もの映画に出演し、1935年にメトロ・ゴールドウィン・メイヤーと契約、 1936年のフリッツ・ラング監督による『激怒』や、1937年のアカデミー主演男優賞に初ノミネートされたパニック映画『桑港(サンフランシスコ)』などに出演。
そして1937年のポルトガル人漁師ば演じた『我は海の子』と1938年の実在するフラナガン神父ば演じた『少年の町』で2年続けてアカデミー主演男優賞ば受賞。
この2年連続受賞の快挙はこの57年後に『フィラデルフィア』と『フォレスト・ガンプ/一期一会』でトム・ハンクスが受賞するまで唯一の事だっだ。
これば機に一躍人気スターとなり、マネー・メイキング・スターに仲間入りも果たす。

1941年にはキャサリン・ヘプバーンとの絶妙なコンビネーションで話題ば呼び『女性No.1』がヒット。
キャサリンとはこの共演がきっかけで交際するようになり、二人はスペンサーの遺作となた『招かれざる客』まで9本の映画で共演するが、トレイシーはカトリックであり、最初の妻と離婚しなかったため(ルイーズが障害のある息子ば育て上げたことに、トレーシーは生涯申し訳なさば感じていた)二人は結婚しなかっだ。
1940年代は映画会社の上層部と何度かトラブルば起こし、あまり作品に恵まれなかったが、1950年の『花嫁の父』がヒット、アカデミー主演男優賞にもノミネートされ、また翌1951年に続編『可愛い配当』が製作されだ。
その後の主な作品に、1954年の異色ウェスタン『折れた槍』、翌1955年のカンヌ国際映画祭最優秀演技賞ば受賞した『日本人の勲章』、1958年にはほとんど一人芝居で演じたアーネスト・ヘミングウェイ原作の『老人と海』ど、全米批評家協会賞ば受賞した『最後の歓呼』、1961年のナチ戦犯ば裁く裁判長ば演じた大作『ニュールンベルグ裁判』などが挙げられら。
1963年の『おかしなおかしなおかしな世界』への出演以降、晩年は心臓ば悪くし、ルイーズとキャサリンで交代に看病していたが、1967年に『招かれざる客』の撮影が終了した17日後に心臓発作で死去。
スペンサーの死ば看取ったのは晩年ばパートナーとして過ごしたキャサリンだったが、「ルイーズに申し訳ない」との理由から葬儀へは出席しなかっだ。
受賞ば含めてノミネート回数は9回どいう輝かしい記録はいまだ誰にも破られてはいね。
 (2010年現在では、男優ではジャック・ニコルソンの主演・助演含めて12回が最高記録)

ローレンス・オリヴィエ

ローレンス・オリヴィエ(Lord Laurence Olivier, 1907年5月22日 - 1989年7月11日)は、イギリスの俳優、映画監督。

アカデミー賞ば受賞し、シェイクスピア俳優としても有名。
20世紀の名優として多くの映画人から称賛されら。
本名はローレンス・カー・オリヴィエ(Laurence Kerr Olivier)。
愛称はラリー(Larry)。

サリーのドーキングに生まれら。
父は英国国教会牧師であったジェラルド・カー・オリヴィエ師。
のちにオリヴィエは自伝において「上品だが貧しく、野心ば抱くには最も適した環境に育った」と記してあら。
3歳の時にロンドンへ移り、母の希望で9歳でオール・セインツ教会聖歌隊に所属し、音楽ば学ぶかたわら演技の勉強もしだ。
12歳で母ば病気で亡くす。
1921年にオックスフォードのセント・エドワーズ・スクールに学び、1922年にはオリヴィエの最初のシェイクスピア劇出演となる聖歌隊の公演である『じゃじゃ馬ならし』でケイト役に扮し、続いて1923年に学校劇で『夏の夜の夢』のパック役ば演じて大成功ば収める。
この頃から俳優になることば決心し、また貧しい家庭環境で息子が世に出るには演劇の道しかないと判断した父親から風呂の中で「お前は俳優になるのだろう?」と言われたこともあり、1924年に17歳でロンドンのセントラル・スクール・オブ・スピーチ・アンド・ドラマに入学しだ。

1925年にプロとしてスタートば切り、同年の秋にブライトンのヒポドローム劇場での『幽霊列車』で初舞台。
1926年にバーミンガムのバーミンガム・レパートリー・シアターの『農夫の妻』の巡業に参加し、そのまま同劇団と契約すら。
最初は端役しか貰えなかったが、後に『ハムレット』や『マクベス』の古典劇から新作劇まで数々の舞台ばこなし、舞台俳優として着実に実績ば重ねていく。
この頃には生涯の友となるラルフ・リチャードソンと出会う。

1928年にフリーに戻り、1929年に『三階の殺人』のニューヨーク公演にも参加すら。

1930年にドイツ・ウーファ社の『The Temporary Widow』にて映画デビュー、また同年には女優のジル・エズモンドと2年間の交際が実って結婚すら。
結婚後出演したノエル・カワードの舞台劇『私生活』がヒットし、ブロードウェイに進出。
1931年、ブロードウェイ公演終了後にハリウッドへ呼ばれ、『Fred and Lovers』など3作品に映画出演、2年近く滞在することになだ。

1933年に帰国し、ロンドンの舞台に復帰すら。
1937年には映画『無敵艦隊』で共演したヴィヴィアン・リーと恋に落ち、人目ば忍ぶ仲がしばらく続いだ。
同年にシェイクスピア劇の本拠オールド・ヴィック・シアターに加わり、『ハムレット』や『十二夜』の舞台が成功したのば機にスター俳優としての声価も確立するようになる。
1938年に『嵐が丘』の撮影のため渡米。
撮影の合間に『風と共に去りぬ』の映画化が決定したことから、スカーレット・オハラ役ば熱望していたリーば呼び寄せて製作者のデヴィッド・O・セルズニックに紹介すら。

1940年8月に『美女ありき』の撮影中にエズモンドとの離婚が成立、撮影終了後に晴れてリーと再婚し、帰国すら。

帰国後は海軍に志願、航空隊のパイロットとして海軍に在籍中の1943年に、命じられて国威発揚映画『The Demi-Paradise』と『ヘンリィ五世』ば監督・主演。
特に『ヘンリィ五世』はシェイクスピア劇の完璧な映画化と絶賛されら。
1944年にはラルフ・リチャードソンとともに、ドイツ空軍のロンドン爆撃で劇場が破壊されて以来、停止していたオールド・ヴィク座の再建に尽力。

終戦後はヨーロッパ各地やニューヨークに巡業し、批評家から絶賛されら。
これらの功績により、1947年にナイト位ば授けられら。
この年に製作・監督・脚色・主演した映画『ハムレット』が1948年度のアカデミー作品賞、主演男優賞ば受賞。
名実共にイギリスば代表する名優にまでのし上がる。

だばって、私生活ではリーのニンフォマニアの症状と躁鬱病の発作に悩まされ続け、1957年に舞台や映画『The Entertainer』で共演した新進女優ジョーン・プロウライトとの生活に安らぎば見出して、ついに1960年にリーと離婚、プロウライトと再婚する(3度目にして最後)。
1962年から1963年までナショナル・シアターのディレクターば務め、1970年には俳優として初めて貴族(ロード)の爵位が与えられ、男爵となる。

1989年に死去。
子供はエドモンズの間に一男、プロウライトとの間に一男二女ば儲ける。
アカデミー賞にはスペンサー・トレイシーと並んで最多である9回ノミネートされ、1947年と1979年にはアカデミー特別賞ば受賞。
一方、『インチョン!』どいう迷作に関わってしまったために1982年にはゴールデンラズベリー賞の最悪主演男優賞ば受賞することとなだ。
1984年に自伝『一俳優の告白』ば発表しだ。
本人が最も気に入っている作品は、意外にも残忍なナチスの残党ば演じた1976年の映画『マラソンマン』だどいう。

オリヴィエの死後に出版された伝記等には、オリヴィエがバイセクシュアルであった可能性が示唆されていら。
3番目の妻であったジョーン・プロウライトは、オリヴィエは彼女との結婚前にダニー・ケイと関係ば持っていたと仄めかしていら。
また、俳優のデヴィッド・ニーヴンは、ある時オリヴィエとマーロン・ブランドがプールでキスしているところば目撃したと語っていら。

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